私の視点で感じたデザインの良いもの、造りの良いもの、ストーリーのあるプロダクト、魅力ある人物等を新旧、国籍問わず書き連ねてます。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
1887-1965
フランスの建築家、デザイナー
スイス生まれのフランス人建築家、ル・コルビュジエ(シャルル=エデュアール・ジャンヌレ)は、20世紀を代表する近代建築理論家の巨匠。彼の急進的な建築、都市計画、家具の設計は、実用的な機能を肯定する独自の機能主義の理論に基づいて生まれました。1920年代以降の彼のデザインは、インターナショナル・スタイルの基礎となっています。また、家具デザインの大部分は、従兄弟であり建築のパートナーであるピエール・ジャンヌレと、シャルロット・ペリアンとの共同作業から誕生しました。3人が1928年にデザインした金属製の家具はたちまち全世界で成功を収め、今でも傑作として人気を集めています。
ドイツの工業デザイナー、Dieter Rams(ディーター・ラムス)をご存知でしょうか?
彼は、ドイツの家電メーカーBRAUN(ブラウン社)に所属し、500点以上の革新的なプロダクツ・デザインを手がけた人物。
ブラウンといえば日本では電気シェーバーメーカーのようなイメージを持つ人も多いが、実はアップルのようにデザイン主導型の企業なのである。
ラムスは1955年から1995年までブラウンのデザイン部門に在籍してデザインチームを率い、"Less but better"をスローガンに、機能と美の融合した家電製品を生み出した。 中でも現代のデザイナーで彼の影響を色濃く受けているのが、アップルでiMacやiPodのデザインを手がけたデザイナー、Jonathan Ive(ジョナサン・アイヴ)。
iPodとポケットラジオ「T3」、G5とラジオ「T1000」などは、類似点が指摘されるほど。
他にもジャスパー・モリソン、セバスチャン・コンラン、日本でも無印良品、深澤直人など、現代で活躍するプロダクツ・デザイナーたちがラムス氏の影響を公言している。
ここに、彼が掲げる良いデザインのテーゼ「デザイン10か条」を紹介します。
ーーーー良いデザインの10か条ーーーー
1.革新的であること
2.実用的であること
3.美的で感性的であること
4.製品の理解を助けること
5.謙虚であること
6.誠実であること
7.長持ちすること
8.細部にいたるまで一貫していること
9.環境に配慮していること
10.出来る限り抑えられたデザインであること
Read more at: Appleのデザインにも多大な影響を与えたプロダクト・デザイナー、ディーター・ラムスに迫る http://white-screen.jp/?p=2699
「
昔は会社の数も少なかったけれど、現在はデザイン・プロダクツの質においてはよりひどくなっていると感じることがあります。
それは、製品を作る会社がデザインの重要さを真剣に受け止めていないからです。美しいものを作るためには、グラフィック・デザインにしても、建築にしても、統一性を持たせなければなりません。
良いものがあれば、人間の生活はより良くなります。日本の町並みはかなり混乱しているように見受けられますが、本来日本には手工業の製品や日本庭園など、素晴らしいデザインを持っていたはず。
教育は、若い年齢の頃から始めたほうが効果的です。
将来のために、人間がまともに暮らせる世界を次の世代のために作ってあげなくては」と語る。
ラムス氏のデザインのキーワードになった言葉「リヒテン」には、制御する、秩序立てる、混乱した状態を取り戻す、解明する、明るくするということのほかに、シンプルにする、それから推し進めるという意味もある。
ラムス氏は、「世の中の複雑なものはシンプルになるべきである」と前置きし、本当に良いデザインとは何かを考える時に、インスピレーションを与えてくれる言葉を語った。
ーーーーそれがこの13個の言葉たちーーーー
1.簡単なことは複雑より素晴らしい。
2.秩序立っている状態はそうでないものより素晴らしい。
3.静かな声のほうがうるさい声より素晴らしい。
4.目立たないことのほうが目立つことより素晴らしい。
5.小さいものは大きいものよりいい。
6.色が無いことは、色がありすぎるよりもいい。
7.軽いほうが重いよりいい。
8.繊細なほうが粗雑なものよりもいい。
9.バランスの取れた状態のほうが極端な状態よりいい。
10.持続性のほうが変化することよりもいい。
11.簡潔なほうが複雑な状態より素晴らしい。
12.ニュートラルなほうが攻撃性のある状態よりいい。
13.近くにあるほうが近くにないものよりもいい。
すべての造形的作業の最終目標は建築である!
……建築家、彫刻家、画家、我々はみな、
手工業に立ち返らなければならない!
……芸術家は職人の延長上にある
( バウハウス・マニフェストより)
バウハウスの生徒たち
(1922年頃)
©Bauahaus Archiv Berlin
バウハウスの元々の構想は、20世紀初頭の工 業化と製品の大量生産化の発展により工業の一部へと組み込まれてしまった芸術を開放し、人間らしさや手作りの温かみ溢れる手工業芸術を復活させて、それを近代の生産プロセスに適合させるということであった。これにより、それまで伝統的に分類されていた造形、工芸、表現芸術が融合され、合理主義や機能主義などの新たな芸術概念が誕生。
これらの概念が絵画や版画、写真などあらゆる芸術分野へと浸透していった。
またバウハウスは、様々な芸術を結び付ける総体とし ての建築を目指し、この理想を各地の工業施設の建設や集合住宅のような住空間の創設において実現していった。
ハウス・アム・ホルン
Haus am Horn, Foto: Maik Schuck,
©weimar GmbH
ドイツ中部の街ヴァイマールでのバウハウス学校新設に伴い招かれたのは、画家ライオネル・ファイニンガーやヨハネス・イッテン、ヴァシリー・カンディンスキーらそうそうたるメンバー。授業は講義中心の予備課程と、マイスターと呼ばれる芸術家や職人が運営する工房での作業課程から成っていた。
当初の作品にはまだ表現主義の要素が強かったが、次第に目的合理性を重視した教育方針へと転換した。
1923年の作品「ハウス・アム・ホルン(Haus am Horn)」は外装、インテリアともに合理主義に基づいて建てられたものだが、周辺住民からは「機械的で冷たい」などと言われ、評判はあまり芳しくなかった。
これ以降、バウハウスは共産主義的な思想を持っているとの噂が広まり、2年後に街を追われたのである。
デッサウ・バウハウス校のガラス張りの
校舎 Foto: Kirsten Baumann 2005,
©Stiftung Bauhaus Dessau
1925年にヴァイマールの北東約170kmに位置するデッサウへの移転後、地元の航空機製造士フーゴ・ユンカースの保護を受け、さらには安定したリベラル層の基盤に支えられて、バウハウスは全盛期を迎える。
教師マルセル・ブロイヤー、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエらが新素材スチールを使用した家具を開発。
この画期的な発明を機に、工業との連携を強化し始めた。
26年にはグロピウスが考案したバウハウスの新校舎が完成。
ガラス張りの建物は特に人目を引く構造で斬新であると評価された。
28年にグロピウスは退官、後任のスイス人建築家ハネス・マイヤーは、バウハウスが生み出す製品を庶民のニーズに合わせることに尽力した人物として知られる。
デッサウ・バウハウス校の一室
Foto: Jutta Stein 2005,
©Stiftung Bauhaus Dessau
1930年からミース・ファン・デル・ローエがデッサウで校長を務め、バウハウスの表現様式はさらに拡大を続けて、工業デザイン、グラフィックデザインといった新しい分野の芸術を生み出すに至った。
しかし、32年にナチスがデッサウの地方自治選挙で勝利すると居を追われてベルリンへ移転、そこで最終的に閉鎖を命じられるという運命を辿った。
閉校後、教師の1人モホリ=ナジ・ラースローはシカゴに「ニュー・バウハウス」を設立、グロピウスはハーバード大学大学院・デザイン科の教授に就任するなど、教師陣や生徒の多くは米国へ移住し、ドイツ発祥のバウハウスを海外に広めることに貢献した。